
源氏物語が書かれた時代、ここ雲林院は四町にも迫るほどの 広大な寺院であり、『枕草子』にも「鳥は」の段の中で、 祭のかへさ見るとて、雲林院、知足院などの前に車をたて たれば、杜鵑もしのばぬにやあらん鳴くに、いとようまねび 似せて、木高き木どもの中に、諸聲に鳴きたるこそさすが にをかしけれ。 と、雲林院,知足院などの前が、祭のかへさ(=賀茂祭の「還 立の儀=斎王が上社の神館を出て、斎院に帰る)」を見物す るためのおすすめスポットであったこと、そして 清少納言自ら そこに出掛けていたことを記しています。その他、「行幸にな ずらふるものは何かあらん。」で始まる段の中でも、 祭のかへさいみじうをかし。きのふは萬の事うるはしうて、 一條の大路の廣う清らなるに、日の影もあつく、車にさし 入りたるもまばゆければ、扇にて隱し、居なほりなどして、 久しう待ちつるも見苦しう、汗などもあえしを、今日はいと 疾く出でて、雲林院、知足院などのもとに立てる車ども、 葵かつらもうちなえて見ゆ。 と、やはり「祭のかへさ」の見物スポットとして、「雲林院、知足 院」の名が再び書かれています。 道長も『御堂関白記』で長和五年の四月二十五日(つまり、中 の戌の日=還立の儀が行われる日)の中で 大(太)皇大(太)后宮大夫と同車し見物す。(中略) 女方見物す。(後略) と記しており、道長自身、当時太皇太后宮大夫であった公任 と同車して、還立の儀見物していたことが書かれていますし、 『日本紀略』二十五日条には、 若宮於紫野見物 ともあることから、道長が若宮(=敦良親王)とともに 紫野で 車中から見物していたことがうかがえます。もちろん、この時 の場所も「於紫野見物」という記述から、雲林院と知足院の 間だったろうと想像されるわけです。 (賀茂祭と還立の儀については、「御生れ」等についての中で も触れたことがありますので、ご興味をお持ちの方は、そちら もあわせてご覧下さい。) このように、当時「雲林院」といえば、知らぬ人などいないほど 有名な寺院であったわけですが、現在の雲林院は、大徳寺の 塔頭(たっちゅう)として江戸時代に再興されたものであり、大 徳寺派臨済宗の小寺として、わずかに観音堂が残されている のみです。 それでは、史実としての雲林院について 順を追ってみていき ましょう。 雲林院は最初「紫野院」と呼ばれていました。それが天長九年 (832年)四月十一日に淳和天皇の御幸をいただき「雲林亭」 と改名し、さらに九月二十六日条には「雲林院」の名称が使用 されたことが『類聚国史』に記されています。 淳和天皇の離宮であった雲林亭は、淳和天皇→仁明天皇→ 仁明天皇の第七皇子である常康親王へと伝領され、親王の出 家に伴って仏寺となりました。 『古今集』春歌下には、 雲林院親王のもとに、花見に北山のほとりにまかれりける 時によめる いざ今日は春の山辺にまじりなむ 暮れなばなげの花のかげかは という素性の歌も載せられています。 そして、親王が亡くなられた後の元慶八年九月十日には、素性 の父であり、六歌仙の一人として有名な僧正遍昭が、親王の心 願を実現するために花山元慶寺の別院とすることを請うて勅許 を得ています。 『古今集』秋歌下から、僧正遍照の歌もどうぞ。 雲林院の木のかげにたたずみてよみける わび人のわきて立ち寄る木のもとは 頼むかげなく紅葉散りけり 小山利彦著「雲林院と紫野斎院」(角田文衞・加納重文編「源 氏物語の地理」思文閣出版 所収)によれば、仁明天皇から 僧正遍昭までの流れは、「源氏物語」を読む上でも ポイントと なる箇所のようですので、わかりやすいように年表にまとめて みました。 |
| 850年3月21日 | 仁明天皇崩御 |
| 同年3月28日 | 遍照(仁明天皇の寵臣)出家 |
| 851年2月23日 | 常康親王出家 |
| 869年2月16日 | 常康親王、雲林院を遍照に預ける |
| 同年5月14日 | 常康親王薨去 |
| 884年9月10日 | 遍照、雲林院を花山元慶寺の別院とする 勅許を得る |
| 886年4月 3日 | 遍照、3月21日を仁明天皇忌日として、 毎年国忌を執り行う勅許を得る |
少し補足しておきますと、「三代実録」仁和二年(886年)四月三 日条には、貞観十一年(869年)二月十六日に、常康親王が雲 林院を遍照に付属させるに際して、「永く精舎と為し、天台の教え を伝え、先皇の恩に報いんと欲す」との親王のご意向が 遍照に 伝えられていたことが記されています。 遍照は親王の死後もそのご意向を守り続け、仁明天皇の崩御 からは36年もの歳月が経過した仁和二年(886年)に、ようやく 仁明天皇の国忌を毎年3月21日に執り行う勅許を 光孝天皇か らいただくことができた・・・というわけです。 これが、源氏物語と何の関係があるんだ?! とお思いかもしれ ませんが、小山利彦氏によれば、史実における「先皇たる仁明天 皇--追善する皇子たる常康親王--追善に関わる僧たる遍照」に 対応するものとして、「賢木」の巻の「桐壺帝--光源氏--律師」が 描かれているのだそうです。 まずは、原文からご覧ください。 大将の君は、宮をいと恋しう思ひきこえたまへど、「あさましき 御心のほどを、時々は、思ひ知るさまにも見せたてまつらむ」 と、念じつつ過ぐしたまふに、人悪ろく、つれづれに思さるれ ば、秋の野も見たまひがてら、雲林院に詣でたまへり。 「故母御息所の御兄の律師の籠もりたまへる坊にて、法文な ど読み、行なひせむ」と思して、二、三日おはするに、あはれ なること多かり。 桐壷院が崩御され、藤壷中宮に再び迫ってはみたものの 激しく 拒絶された光源氏は、雲林院に参籠します。ここ雲林院では、母 桐壷更衣の兄弟が律師として修業をしていました。 つまり、光源氏は救済を求めて雲林院に赴き、物語は 光源氏 の苦悩を癒す存在として、肉親である律師を登場させた・・・とい うわけです。 私自身はこれまで、逆境にある光源氏が藤壷に激しく拒絶され た恨みから「自分にこんなに冷たくすると、東宮をお守りする人 間が お側からいなくなってしまうんだぞ! ということを、中宮 にも少しは思い知っていただこう!」という いじけた気持ちに なって、それで 雲林院に籠ってしまった・・・というふうに ここ の場面を読んでいたのですが、どうやら 実際には それだけで はなかったようで、光源氏は雲林院において 先皇たる故桐壷 院への報恩をも 祈念していたはずだ・・・と、小山利彦氏は指 摘しておられるわけです。 確かに、物語にも、 六十巻といふ書、読みたまひ、おぼつかなきところどころ解 かせなどしておはしますを、「山寺には、いみじき光行なひ 出だしたてまつれり」と、「仏の御面目あり」と、あやしの法 師ばらまでよろこびあへり。 と、光源氏が雲林院に参籠した仕上げとして、天台六十巻の教 えを真面目に学んでいたことが書かれていたわけで、実在した 「仁明天皇・常康親王・遍照」と物語における「桐壺帝・光源氏・ 律師」を重ねていく読みも おもしろそうだなと思った次第です。 |