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源氏物語に登場する斎院


源氏物語に登場する斎院といえば、式部卿宮の姫君である朝顔斎
院があまりにも有名ですが、実際には 朝顔斎院の他にも それぞ
れの御代ごとに斎院がおられました。

それでは、源氏物語に登場する斎院たちをご覧下さい。

桐壷帝の御代

「末摘花」の巻に

侍従は、斎院に参り通ふ若人にて、この頃はなかりけり。

と書かれているのが、源氏物語に「斎院」の名が出てくる最初です。

この侍従というのは、常陸宮の姫君(=末摘花)の乳母子であり、

女君の御乳母子、侍従とて、はやりかなる若人、「いと心もとな
う、かたはらいたし」と思ひて、さし寄りて、聞こゆ。


と書かれていますように、はやりかなる若人つまり、才気走った若
い女房として、物語に登場してきました。

時は秋、八月二十日も過ぎた頃、いつまで経っても 常陸宮の姫君
からは何のお返事ももらえないことに ついにしびれをきらした光源
氏が 初めて姫君と出会う場面です。
侍従は、光源氏が何を話しかけても なんのお返事もできずにいる
姫君を見かね、代わりにお返事を申し上げました。

つまり、常陸宮の姫君の周りにいた女房たちの中で、唯一まともな
女房として描かれていたのが 斎院にも仕えていた この侍従であ
ったわけです。

ただ、初めに引用した本文に戻りますが、

侍従は、斎院に参り通ふ若人にて、この頃はなかりけり。

と書かれていることからもわかりますように、侍従は末摘花の側に
いつもいるわけではなく、それゆえ、光源氏と末摘花とのやりとりが
侍従のいない場面で行われる時には、ことごとく 光源氏の苦笑や
失笑を招く結果となっているのでした。

例えば、末摘花から歳末に届けられた センスのかけらもない和歌
と衣箱を目にした光源氏は

「さても、あさましの口つきや。これこそは手づからの御ことの
限りなめれ。侍従こそとり直すべかめれ。また、筆のしりとる博
士ぞなかべき」と、言ふかひなく思す。


と、末摘花のあきれた詠みぶりに驚きつつも、末摘花にとってはそ
れが限界なのだろうと、妙に納得したりも していたわけです。その
時の 光源氏の台詞の中に「侍従こそとり直すべかめれ。また、
筆のしりとる博士ぞなかべき
」つまり、「本当だったら、侍従が直す
べきところなんだろうけれど、侍従が側にいない今、他に手を取って
教えるような先生はいないのだろうな・・・」というのがあり、光源氏が
「まいったね、これは!」という気持ちになっていることが よくわかり
ます。

このことを逆から言えば、斎院に参り通ふ若人つまり、侍従は斎院
にも奉公しているような女房なんですよと 物語の中で一言紹介する
だけで、当時の読者ならば「へえ、それは なかなかの・・・」というこ
とが理解できてしまうくらい 「斎院」という言葉の持つイメージは 文
化的水準の高いものであったように思われるのです。

さて、「葵」の巻には、

そのころ、斎院も下りゐたまひて、后腹の女三宮ゐたまひぬ。

と、桐壷帝の退位により、侍従がお仕えしていた斎院も退下された
ことが記されてます。

さらに、「蓬生」の巻には

侍従などいひし御乳母子のみこそ、年ごろあくがれ果てぬ者に
てさぶらひつれど、通ひ参りし斎院亡せたまひなどして、いと堪
へがたく心細きに、この姫君の母北の方のはらから、世におち
ぶれて受領の北の方になりたまへるありけり。


と、その斎院が亡くなられたことや、そのために、斎院に出入りして
いた侍従の生活が苦しくなっていたことなどが書かれています。

ちなみに、末摘花も この侍従のことはたいそう信頼しており、彼女
が大弍の甥に当たる人とともに離京してしまう時には、作者が末摘
花に与えていた唯一の美である ご自分の髪で作られた みごとな
鬘を与えていたほどでした。

この時の斎院がどなたなのか、それについては物語に書かれてお
らず わかりませんが、その斎院に出入りしていた侍従の描かれ方
から推し量りますに、文化サロンの主となるにも相応しい方であった
のではないかと思われます。

朱雀帝の御代

「葵」の巻に、桐壷帝の退位をうけて、

そのころ、斎院も下りゐたまひて、后腹の女三宮ゐたまひぬ。

と書かれていたことは、先ほども触れたとおりです。

さて、新しく斎院となられた方は「后腹の女三宮」とあることから、
桐壷帝の女三宮で、母が弘徽殿大后であることがわかります。

帝、后と、ことに思ひきこえたまへる宮なれば、筋ことになりた
まふを、いと苦しう思したれど、こと宮たちのさるべきおはせず。
儀式など、常の神わざなれど、いかめしうののしる。祭のほど、
限りある公事に添ふこと多く、見所こよなし。人がらと見えたり。


この姫宮は 桐壷帝も弘徽殿大后も どちらもたいそう大切にして
おられる宮でしたから、この方が斎院になられたことで、賀茂の祭も
これまで以上に気合いの入ったものとなり、また、特別の宣旨も下っ
て、新斎院の御禊には 光源氏も供奉することになります。

こうして、あの有名な一条大路における車争いのシーンへと 物語
は展開していくわけです。

さて、その後 この方は、桐壷院の崩御により、斎院を退下されたこ
とが「賢木」の巻に書かれています。

斎院は、御服にて下りゐたまひにしかば、朝顔の姫君は、替は
りにゐたまひにき。賀茂のいつきには、孫王のゐたまふ例、多く
もあらざりけれど、さるべき女御子やおはせざりけむ。


十一月一日に桐壷院が崩御され、次の斎院になられたのが、朝顔
の姫君でした。適当な内親王がいらっしゃらなかったために、王女で
ある朝顔の姫君に白羽の矢が立ったというわけです。

源氏物語には、紫野斎院にいる朝顔の姫君のもとに光源氏が手紙
を差し上げ、二人の間に和歌の贈答があったことが 次のように書
かれています。

吹き交ふ風も近きほどにて、斎院にも聞こえたまひけり。(略)
「かけまくはかしこけれどもそのかみの 秋思ほゆる木綿欅かな
昔を今に、と思ひたまふるもかひなく、とり返されむもののやうに」
と、なれなれしげに、唐の浅緑の紙に、榊に木綿つけなど、神々し
うしなして参らせたまふ。
御返り、(略)御前のは、木綿の片端に、
「そのかみやいかがはありし木綿欅 心にかけてしのぶらむゆゑ
 近き世に」
とぞある。


この時 光源氏は雲林院に参籠しており、すぐ近くの地 紫野斎院に
おられる朝顔の斎院にも、侍女の中将を通して消息を差し上げたと
いうわけです。もちろん、斎院に差し上げるのに相応しいようにと、唐
の浅緑の紙に、榊に木綿をつけるなどして、神々しく仕立てることも忘
れてはいません。朝顔の斎院からの返歌も 木綿の片端に書かれた
ものでした。

ちなみに、このことを知った右大臣は、朧月夜と光源氏との密会を知
った腹立ちもあり、聖なる存在である斎院に対し 光源氏が忍んで手
紙のやりとりしていたことを 彼を失脚させる理由のひとつとして 挙げ
てもいます。

冷泉帝の御代

「澪標」の巻で、朱雀帝から冷泉帝へとご譲位のことがありましたが、
斎院は 朝顔の姫君のままでした。

その後「薄雲」の巻で、

その日、式部卿の親王亡せたまひぬるよし奏するに、いよいよ
世の中の騒がしきことを嘆き思したり。

と、朝顔の姫君の父宮である式部卿の親王がお亡くなりになったこと
が書かれ、さらに「朝顔」の巻で、

斎院は、御服にて下りゐたまひにきかし。(略)
長月になりて、桃園宮に渡りたまひぬるを聞きて、女五の宮のそ
こにおはすれば、そなたの御訪らひにことづけて参うでたまふ。


と、父宮の死に伴い朝顔の姫君が斎院を退下され、桃園に移られた
ことが記されています。

朝顔の姫君については、その後「若菜(下)」の巻で、

斎院はた、いみじうつとめて、紛れなく行なひにしみたまひにたな
り。


と、斎院として神に仕えておられた間は やりたくてもできなかった仏
道に 今は専念され、熱心に精進していらっしゃる様子が描かれてい
ます。

朝顔の斎院が退下された後、どなたが新斎院になられたのかについ
ては何も語られないまま、物語は今上帝の御代へと移っていきます。

今上帝の御代

「若菜下」の巻には

四月十余日ばかりのことなり。御禊明日とて、斎院にたてまつり
たまふ女房十二人、ことに上臈にはあらぬ若き人、童女など、
おのがじしもの縫ひ、化粧などしつつ、物見むと思ひまうくるも、
とりどりに暇なげにて、御前の方しめやかにて、人しげからぬ折
なりけり。


と、御禊を翌日に控え、女三宮の侍女十二人が 斎院に奉仕するた
めに女三宮のお側を離れ、女三宮の御前がひっそりと人少なになっ
ている様子が描かれています。

この時の斎院がだれなのかは ついにわからないままになりますが、
このことがあったために、小侍従だけがお側近くに伺候することとな
り、女三宮の御帳台の東面の御座所の端に 柏木を導き入れる・・・
という大事件にもつながっていったのでした。


以上が、源氏物語に登場する斎院たちです。

源氏物語が書かれた一条帝の御代、実際に斎院の主としてサロン
を形成しておられたのは、選子内親王でした。

選子内親王は村上天皇の第十皇女で、母は右大臣藤原師輔の娘の
安子。一条帝の御代だけでなく、975年(天延3年)に11歳で賀茂斎
院にト定されてから、円融・花山・一条・三条・後一条の5朝56年間
の長きにわたって斎院として奉仕され「大斎院」と称された方です。

この大斎院に仕えている女房の一人に 中将の君という人がいて、
彼女は 紫式部の弟・惟規の愛人でした。紫式部は 中将の君が弟
に宛てた手紙の中に、

歌などのをかしからむは、わが院よりほかに、誰か見知りたまふ
人のあらむ。世にをかしき人の生ひいでば、わが院のみこそ御
覽じ知るべけれ


と、自分がお仕えしている大斎院こそが 和歌などの風雅を正しく理
解できる 唯一絶対のお方・・・というようなことを書いていたのを 目
にしてしまい、『紫式部日記』の中で、中将の君のことを辛辣に批評
するとともに、

さぶらふ人をくらべていどまむには、この見たまふるわたりの人
に、かならずしもかれはまさらじ


と、中宮彰子に仕える女房と 大斎院に仕える女房とを見比べた場
合、必ずしもあちらが勝っているわけではない(要するに、「こっちだ
って 負けてなんかいるものですか!」)という対抗心を露わにしてい
ます。もっとも、それに続く箇所では

をかしき夕月夜、ゆゑある有明、花のたより、ほととぎすのたづ
ねどころにまゐりたれば、院はいと御心のゆゑおはして、所のさ
まはいと世はなれ、かんさびたり。

と、折に触れ 世俗の雑事にとりまぎれることのない斎院の神々しい
様子については やはり認めざるをえなかったのですが・・・。

源氏物語が書かれた時代の斎院が、皇后定子・中宮彰子のそれと
並んで、お互いにお互いを意識せずにはいられなかったほどの文芸
サロンを形成していた様子がうかがえます。

源氏物語に登場する斎院のうち、その人の内面にまで触れて詳しく
描かれているのは 式部卿宮の姫君である朝顔斎院しかいませんで
したが、彼女は光源氏の求愛を最後まで拒んだ聖なる存在であった
と同時に、四季折々の情趣を解し、薫物・和歌・書 どの方面にも優
れ、また、常に相手の気持ちを思いやる心優しき女性としても描かれ
ていました。

朝顔斎院のこのような生き様は、源氏物語の作者にとっての あらま
ほしき斎院像を描いたものか とも思えますが、その朝顔斎院の人物
造形に、実在の選子内親王のイメージが与えた影響がいかなるもの
であったのか、そんなことを考えるのも また 楽しみのひとつといえる
のではないでしょうか。


本文引用
源氏物語:渋谷栄一校注「源氏物語の世界
紫式部日記:中野幸一校注「新編日本古典文学全集」小学館
参考文献
岩佐美代子著「内親王ものがたり」岩波書店

「雲林院」へつづく

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